死ぬことはどんなことであろうか。学生に『「死」について』という作文の宿題を課し、自らもそのテーマで書くという約束をしてから「死」について改めて考えさせられた。「死」は人間を問わず、すべての生き物の生まれ出る悩みである。おそらく全人類にとって「死」は最も恐怖を感じることであり、同時に避けて通ることのできないものでもあろう。その恐怖心は、動物と同じく本能からきている部分もあれば、人間の特有の知性からきている部分もある。人間には知性があり、自分がやがて死んでいくものだと理解できるのである。未知なことは怖いもある。「死」は極端に未知なものであり、既知になりえない唯一の人間の課題でもある。
人間は、物事を経験して、語り、経験により自分の行動を正すものである。しかし、「死」に関しては、経験や試行錯誤云々は一切当てはまらない。それは、一回しか経験できないものであり、経験したところで生涯は終焉を迎え、語ることもできないからである。それゆえ、生きている者しか、死について語ることができない。しかし、生きている者は「死」について知識を持たず、その謎を解くための特別な知識を持っている者はいない。唯一、「死」について語れるのはそれを経験した者であるが、あいにく、経験者はすべて手の届かない世界に逝ってしまうのである。
自分が死んだら、まず、常に有していた意志がなくなり、自分の身体は物体となる。身体は、子宮内でできてそれから生まれ、地球上のものを栄養とし健やかに成長し、たくましくなっていく。身体は、一定のところまで成長したところで、成長が中断し、やがて老いていき、寿命が終わるのである。それで、身体が物体と化すとともに、人間の生きる上での武器である知性もなくなるのである。これは、受け入れざるを得ない事実である。しかし、一番不思議でたまらないのはその身体の行方ではなく、生きていたうちに常にその身体に宿っていた魂の行方である。つまり、死んでから、自分の現在持っている精神はどうなるのかという難解な疑問である。死後、変わるのであればどのような私になるのだろうか。魂の世界があると俗に言われているが、それは一体どんな世界なのであろうか。その世界にも人間関係というようなものがあるのだろうか。この世で、知っている者とは引き続き、あの世でも知り合いであるのか。知らない者とは新たに知り合っていくのだろうか。あの世にも喜怒哀楽があるのだろうか。この世の敵や友はあの世でどう位置づけられるのだろうか。答えの見つからない疑問ばかりである。
私は、自分の「死」を考えるとき、それを、私の知っている既になくなった人々の生涯と比較して考えることがある。つまり、彼らの生涯を基準にし、今を生きている自分は、どの段階にいるのかと自分の生涯を捉えるのである。最近、いくつかの作品に感動した新美南吉の生涯を基準にして考えると、南吉が三〇歳で世を去っているから、現在、三一歳である私は一年間余分に生きていることとなる。三一歳になって世の中に未練がある自分と裏腹に、南吉の生涯がいかに短かったのか実感できるのである。一方、その傑作が私の心を和ませる作曲家のラフマニノフの生涯を基準にして見ると、後三十九年間生きることができる。
私は、自分の「死」ついていろいろな局面を考えることがある。それは、たとえば、自分が死んだときのこともあれば、死んだあとの、一週間、一ヶ月や数年間の世の中の変化や動きのこともある。考えてみれば、これまでに、無数の人が死んでも何も変わらなかったのと同じく、私が死んでも何も変わらないのであろう。多くても数年間しか、私のことを思い出してくれる人はいないだろう。世代が変わったら、私は既に忘れられた人になっているはずである。
私が死んだ次の日から、毎日朝乗って仕事に行っていたバスは、私が乗ったバス停に予定通りに、または少し遅れて到着するだろう。家の近くのパン屋さんは相変わらずおいしいパンを作り続けるのであろう。毎週、テヘランから東京へ行くイランエアーの便は私が死んでからもしばらく続くのであろう。山手線の電車がちゃんと決まった時間に動くよう職員が努力するだろう。
このように考えると万事が偶然であるように感じられる。私の誕生からして、ここまで生き延びたことも偶然であるように。地球上に登場した人間の存在さえ偶然かもしれない。だが、この偶然の集まりの中に秩序が存在しているのは間違いない。その秩序の中で「生」と「死」の循環がある。「生」があるゆえ「死」があり、「死」があって「生」がある。「生」と「死」は常に競争しているのである。「生」が「死」をのがれたり、「死」が巻き返したりするのである。結果は「生」の勝ちでもなく、「死」の勝ちでもない。常に引き分けである。